育暮家物語、杉村喜美雄〜寺坂 麿 家族・自然・健康・笑顔・感謝 お客さまにいただいた、共有する五つの言葉をつなぐものがたり。
育暮家物語01

1985年
近くにいるからお役に立てます。

1985年、周囲の不安の声を耳しながらゼネコンの技術者から独立創業した。
社名の「ハイホームス」は、
なんでも「はいはい」とお役にたとうと「ハイ」、「ホーム」は家、「ス」は巣・・・・
こうして㈱ハイホームスはリフォーム専門店としてスタートした。
独立を知った知人、友人から温かい励ましと共に仕事をいただいた。
職人さんたちは何もない私をみてみんなで力を貸してくれた。
事務員さんは以前一緒に勤めていた会社を辞めて来てくれた。
達筆で請求書や領収書、お礼状など、おほめの言葉と信用をいただいた。
退職後も毛筆で棟札を書いてくれてる。
間もなく、工業高校の同級生が設計事務所を辞めて加わった。
私が現場、彼が設計という役割だった。
事務所はしばらく知人の不動産さんとシェアした。

「会社は経営者以上にはならない」誰からか聞いた。今、その言葉を実感している。
いい訳に聞こえそうだが「小さいままでいい」「小さいことがいい」と思っていたのも事実だ。

育暮家物語01 1985年近くにいるからお役に立てます。
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育暮家物語02

ジェルコ

現場監督だった私は、リフォーム事業、ましてや経営自体全くわからなかった。
ハイホームスの創業と合わせたように
ジェルコ(日本住宅リフォーム産業協会)が立ち上がった。
増改築という言葉はこの団体から生まれたという。
聞きつけ出かけて行った東京ドームのリフォームフェア、その会場で入会申請を済ませた。
ジェルコには増改築を生業としている会社が集まり切磋琢磨し、お互いに学んだ。
その学びから急成長を遂げた会社や先進的経営者を見てきた。
近年、ストック、循環型社会へ向けて、国を挙げての取り組みが加速している。
リフォーム業界の再構築が求められている。
当然、ジェルコの役割も大きくなった。
ジェルコでは中部北陸支部支部長を務めた。
国の方向性、リフォーム産業の全体像が見えた。
ジェルコで知り合った人、会社の存在は宝である。

育暮家物語01 1985年近くにいるからお役に立てます。
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育暮家物語03

営業

技術者の私にはもっとも苦手な世界だった。今でもそれは変わらない。
ポストイン、チラシはリフォーム事業のマニュアル本通りにやった。
ポストインは好きになれなかったが、初めてのチラシからのお問い合わせに感動した。
ある日、知人に紹介された建て替え予定の家にお邪魔した。
お留守だったが戸が開いていて玄関ホールが見えた。
よく見ると上り框の上に名の通ったハウスメーカーさんの名刺がずらっと横並びに並んでいた。
「すごい世界だなあ。」住宅営業の現実を知ることになり、今後に不安がよぎった。
並んでいる名刺の横にそっと自分の名刺を置いてきた。それっきりだった。
「技術は努力で身に付けられるが、センスはもって生まれたもの、なければ磨くことが出来ない。」
営業と言う職業にはセンスが必要だと思う。
私にはこのセンスはないと思う。

営業
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育暮家物語04

現代民家

弟の家を建てるチャンスをもらった。こんな家にしたいが形になった。
「現代民家」とネーミング。初めての新築のカタログはハウスメーカーさんに
習って特大だった。
日本民家に学ぶものがある・・・家づくりの基本コンセプトだった。
床下から越し屋根に抜ける空気の道を考えた。
思えばパッシブデザインの起点だった。
「現場民家」と名付けた家は3棟建てさせていただいた。
メンテナンスや小さなリフォームが施され30年近く経つが古びた感じはしない。
当時、家の寿命が築25年とされていた時代だった。
今、その25年を超えていく姿を見るにつけうれしくなる。

この数年、古民家再生・リノベーションの仕事をいただく機会が増えた。
日本民家に学ぶ。これからも大切にしたい家づくりの基本としていきたい。

現代民家
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育暮家物語05

ハウジングカレッジ

今は「住まい教室」と呼んでいる。
家づくりを一緒に学びたい。その思いがハウジングカレッジをスタートさせた。
講師にはキッチンメーカーさんの協力をいただいた。
大阪からキッチンスペシャリストの女性講師が見えた。
宿泊費の節約と言うよりおもてなしの気持ちから
社員が講師を自宅に泊めてくれた。
どこまでも助けてもらうばかり。
月1回開催したハウジングカレッジは参加者も私たちも楽しかった。
今では自分たちが講師役を担えるようになった。

でも、住宅が多様性、専門性を増し、そして価値観共有も欠かせない。
改めて「ともに学ぶ」の原点に立ち「住まい教室」を続けていきたい。

ハウジングカレッジ
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育暮家物語06

アパート建築

ゼネコンに勤めていたいた私はコンクリートや鉄骨造が得意だった。
事務所をシェアしていた不動産屋さんと組んで、鉄骨造のアパート建築を手がけた。
街中の住宅は鉄骨造を提案し設計、施工させていただいた。
バブル期には工場、倉庫の鉄骨部分のみ請け負ったこともあった。
身につけた技術が助けてくれた。技術は裏切らない。
技術さえあれば怖いものはない。そう思った。
重量鉄骨のアパートは30年近くなるが堅牢を誇り、メンテナンスは続いている。

住宅をメインとした工務店を目指すハイホームスは、数年でアパート建築から離れていった。
目標の技術系の工務店に進んでいった。

アパート建築
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育暮家物語07

OMソーラー

創業から3年経過した頃、1通のダイレクトメールが届いた。
「太陽を利用し床暖房する技術に一緒に取り組みませんか」
というお誘いだった。
いま思えば、創業間もない会社にもDMを発送していたわけで、どれだけの
数のお誘いが全国を飛び回ったことかと思ってしまう。
自然エネルギー利用やエコへの関心はもうひとつだった時代。
呼びかけに反応した経営者は少なかった。
もちろん発送元のOMソーラー協会もまた出来たばかり、
信用されていた訳ではない、だからこそ、思いのある人が集まったと言える。

それにしても私には願ってもないお誘いだった。
太陽熱利用に関心が強かった私は、迷うことなく浜松のOMソーラー協会を訪ねた。
せまい事務所は熱気に包まれていた。その雰囲気にわくわくした。
迷いはない、その場で入会を申し込んだ。
何もかもが新鮮で刺激的だった。
OMソーラーには芸大出身の建築家が集まっていた。
OMに取り組む工務店も志が高い方々だった。
OMは科学的で文化性、地域性がありアカデミックだった。
参加した研修会ではいつも、自社は「未熟な工務店だなー」と思うばかり・・・

OMソーラーを通して学んだことは計り知れない。いいことも、そうでないことも。
そして、OMソーラーを採用していただいた住まい手さんからも多くを教えていただいた。
というより私達を育てていただいた。
工務店はどうあるべきかを導いていただいた。

OMソーラー
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育暮家物語08

モデルハウス

OMソーラーを始めるに当り、まず自分たちで検証、確認しなければと
思い切ってモデルハウスを建てることにした。
千葉の木場にあったモデルハウスを参考にした。
OMソーラーのしくみを学び、太陽エネルギーがいかに活かされていくか
ドキドキしながら仕事を進めた。
完成し、ほんのり暖かい床に寝ころんだ、感激した。
太陽で床暖房する空間を実体験し、これならとOMに取り組む決意を新たにした。
見学会を開催したらオープン前から人が並んだ。
夜間体感会も行った。室内はそれはもう満員電車のようだった。
あれから20年を超え、そのモデルハウスに住むご家族にお子さんが生まれ成長し
ご家族は次のライフステージを迎えています。
家もOMソーラーもメンテナンスが必要になった。
住まいは手をかけ思いをかけそして、メンテナンスで長く住む人の暮らしを支えていく。
その実践(サポート)が始まりまり、まだまだモデルハウスの役目は続いていく。

OMソーラーの基本技術や考え方はあの時から何も変わっていない。
そう言えば、パッシブデザインという言葉はあの当時から使われていた。
OMソーラーの考案者、奥村昭雄先生は
パッシブデザインとは「自然との応答だよ」と教えてくれた。

モデルハウス
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育暮家物語09

フォルクスハウス

OMソーラー協会は家づくりを積極的に推し進めた。
建築家秋山東一さんと標準化された高性能の家を開発した。
それはフォルクスハウス「木造打ち放し住宅」と呼ばれた。
規格化された架構、各パーツを組み合わせたシンプルな躯体を
そのまま内装として機能させた。

工務店はこのモデルハウスを見た時、これが家、これでいいの?と驚いた。
私達の驚きを横目に住まい手さんはフォルクスハウスに支持を与えた。
育暮家も20棟あまりを手掛けた。
時間が経過するとともに「フォルクスハウス」の木構造のあり方、
スケルトン・インフィルの考え方が工務店に理解され、自社の家づくりに
落とし込まれた。
その為か本来のフォルクスハウスは影を潜めていったが
OMはここでも多くの学びをもたらした。

「家づくりのブラックBOXをなくす」。秋山さんからよく聞かされた。
見えない部分をなくす、家づくりはまだまだその途中にある。

フォルクスハウス
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育暮家物語10

近くの山の木で家をつくる運動

戦後、大造林された杉、桧の森の課題がクローズUPされだした。

戦争で木材が必要になり、多くの山が一気に伐採された。
戦後復興に必要な木材は海外に頼るしかなかった。
気がつけば市場の8割が外国産の木材に代わっていた。
植林後40年、伐採時期を迎えたのに需要がないのも当然だ。

山が荒れる。
やがて後継者問題や需要低迷から森が放置されだした。
放置された暗い森は自然災害を助長し、山のサイクルを狂わせた。

森からの悲鳴は私たちにも届いた。
森林率世界3位の日本の現状を改めて知る。
森林のCO2吸収もカウントされる。
私達は近山運動(近くの山の木で家をつくる運動)に賛同し、
行動開始した。

近くの山の木で家をつくる運動
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育暮家物語11

大井川の森

私の父は燃料店として自営業を営んでいた。
当時、燃料と言えば木、製材所から出るおがくず(挽き粉)を集めて瓦工場へ販売していた。
製材所でおがくずの山に埋もれそうになってトラックに積み込んだことを思い出す。
その後、父はオガライト(おがくずを固めた棒状の燃料)工場を立ち上げたが、
間もなく化石燃料時代が到来し、あえなく廃業。
私の住む島田市は昔、木材の町として栄えたところ。
製材、木箱、かまぼこ板、ハンガーなど木製品を扱う工場がいたるところにあった。
なかでも、製材の機械や帯のこの生産では日本一だと聞かされた。
スーと真っ直ぐ伸びた大井川の丸太は質の良い電柱として6割?のシェアを誇っていたという。
小学校の作文に木の町島田のことを書いていた。
ふるさとの山は山の木を取り巻く産業で守られ、また我家の生計もふるさとの山(木)で
成り立っていた。

いざ、近くの山の木(大井川流域の木)と言ったところが、どこから手当てしたらよいか分からなかった。
木材販売店の㈱ヤマカさんに相談したところ、金谷の落合製材さんを紹介してくれた。
先代の落合社長が事務所にやってきた。作業着を着た背の高い人だった。
得々と大井川の木の魅力や山の歴史を話してくれた。
本当に大井川の森を愛しているんだなあ、と感じた。
「この山の木、森の木で間違いない」そう感じた。
ここから落合さん(造材、製材)ヤマカさん(小売)そして私達(家づくり)の協力関係が始まった。

使用する材を「大井川杉」と呼ぶことにした。ブランド名にしたい、みんなで願った。

大井川の森
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育暮家物語12

大井川の木で家をつくる会

「大井川の森の木」で家をつくりだすと、認知と普及の為の組織があった方がいいと思った。
既に山との取り組みを始めていた「東京の木で家をつくる会」に習った。
周りの人に声をかけて「大井川の木で家をつくる会」が誕生した。

今では当たり前になった大井川の森の木の家づくり。
課題は尽きない。毎月1度は会って話し合う。
私達が大井川の森との取り組みから離れることはない。

大井川の木で家をつくる会
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育暮家物語13

育家

家は建ててからが始まり、時間をかけ手をかけ育てていくもの。

オイルショックはなにが起きているのか分からなかった。
高度成長の転換期に遭遇しても「スクラップ&ビルド」に気づかなかった。
バブル次期も同様、その最中に起こっている真実が見えなかった。
そんな時、ある本を見てとても共感した。
「家は建ててから本当の家づくりが始まる」とあった。
引き渡すまでが家づくりとすれば見えないことがある。
本当の家づくりが見えてきた。

歳月を重ねるほど、大切なものが刻まれていき、ますます意心地のいい場所になっていく。
人が家を育て、家が人を育んでいく、その豊かな関係。
私達はそれを「育家」(いくいえ)の2文字に整理した。

建ててからが始まり・・・しかしそれは私達の設計の不備、弱さを「育家」で補ってもらうようで
この時期の「育家」は言葉先行だった。

育家
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育暮家物語14

大沢「青野さんっち」

「育家」の考え方は手作りの家に向かわせた。
レンガや金物、住まいの材や部品を自分たちでつくろうと工房づくりを模索した。
用地として藤枝市街地から車で20分で行ける、小さな集落の一角を紹介された。
そこは藤枝市大沢地区。かつては70戸を超える集落でしたが、がけ地指定から
立ち退きを余儀なくされ、今では10件あまり。
村の事情が伝わってくると、解体される家を何とか残したいと思うようになった。
「近くここから出ていく人がいるよ。家を解体するそうだよ」
そうして昭和初期の青野さんっちの移築再生が始まった。
棟が上がった日は神事を行いもちまきも行った。
小雨が降る中、多くの村の人たちが集まってくれた。感動しっぱなしだった。
やがて、私達は村の一員として迎えられた。

ここでやるべきことがある。
棟上げのあの日、従前の住まい手である青野さんのおばあちゃんが短歌を寄せてくれた。
そのなかに、憩いの場との表現があった。再生された青野さんちにおばあちゃんの描く未来。
当初の計画、工房づくりから方向転換することにした。

大沢「青野さんっち」
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育暮家物語15

ためそう・まなぼう・のこそう

大沢「青野さんっち」のコンセプトだ。
季節毎訪れると里の暮らしを感じることができる。
家や自然そして里の人からやさしいおもてなしがある。
こんな時代だからこの家、この場所が何かの役に立つ。
自らの移築再生の技術を確かめ、つい最近まであった身近な暮らしを体験する場が出来た。

描いた構想の具体化にはもう少し時間が必要だ。
ここは工務店の趣味やイベントの場ではない。
大沢「青野さんっち」は育暮家の考え方を実践する大切な場所となっていく。

ためそう・まなぼう・のこそう
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育暮家物語16

食の会

家づくりを通じて価値観を共有する食のお店と「食の会」が出来た。
ときどき食材、調理、お店の経営、商品化を話し合う。
家づくりと食づくりは共有するところが多い。
話し出すと止まらない。夜更けまで続く。
このところ集まりが減った。声かけ係のこちらに余裕が欠けているのかも。

「食の会」全店共通の食券を発行している。
お店間の信用で成り立つ「食の会・食券」、店主の気持ちがつながるチケットだ。
お店に行くと自然に育暮家の仕事が見える。それがうれしい。
もっとうれしいことは、商品と私たちの仕事が仲良く並んでいること。
元気な食の会、ぜひお店に立ち寄ってみてください。

食の会
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育暮家物語17

パッシブデザイン

パッシブデザインは25年前からの取り組みだが、強く意識し出したのは
数年前、住まいと環境社、野池政宏さんから背中を押されてからだ。
豊富な日射量、風。
静岡の気候風土はパッシブデザインの技術を活かすには最適な場所だ。

省エネ技術や設備が普及する近年の快適空間のあり方は多様だ。
機械設備が先行する快適は、故障や更新時のコストや建物へのリスクが大きい。
ここにきていやなほど体験し実感する。
それだけに機械に頼る前に考えるべきパッシブデザイン。
静岡をパッシブデザインのメッカにする。
その為にはまず自分たちが行動する。
「自分でやってみない人は嫌いだ」野池さんの言葉だ。

パッシブデザイン
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育暮家物語18

職人さん

職人さんが支える家づくり。
価値観を共有する職人さんが現場にいることは安心だ。
私達は職人さんと同じように年月を過ごしている。
世代交代が始まった。
先行く職人さんはリタイヤしていく。
手技をつなぎ思いをつなぐ。
私達は職人さんの存在を当たり前にしてきた。
職人さんを育てる、職人さんが夢を持てる、誇りが持てる。
職人さんを育てていた社会が変化した。親子でつなぐ職人継承も変化した。
このままでは家づくりの職人さんがいなくなる。

良い家づくりは社会、企業、個人、家族そして住まい手さんとの共同作業にかかっている。
職人さんを評価する目や力がいる。
正しい評価と報酬、そして感謝の心がいい職人さんを育てる。
職人さんを育て社会に送り出している企業がある。
感謝し頭を下げているばかりでなく、自分たちも行動しなければならない。

職人さん
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育暮家物語19

叱られて

「対応に時間がかかり、連絡が曖昧だ」
個人と言うより会社自体の体質の問題だ、とお叱りを受けた。

多様化し複雑化しスピード化する家づくりの現場。
それだけに整理しシンプルに考えることが求められる。
甘いと思われるかも知れないが、お客様のお叱りを応援と受け止めたい。
ルール化、マニュアル化で全ては解決しない。
1人で出来ることには限界がある。

それでも出来ないこと、出来なかったことにいい訳をしてはならない。
努力を重ねあきらめない。
私達はお客さまに育てていただいていることに感謝しなければならない。
そして、目標の「共に喜ぶ家づくり」を目指したい。

叱られて
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育暮家物語20

にせものだ

「あんたはにせものだ。」
何事にも一生懸命取組んで来たつもりだった。
しかし、やっていることが言っていることまで到達していない。
ホームページという発信手段を手にしたが、
プロに頼めば実力以上の姿となって表現され、
言葉も借り物になる。
本物とは。
それは自分自身だ。足りても足りなくても。

にせものだ
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育暮家物語21

育暮家

「育家」を商標登録をしておくことにした。
しかし、その1年前すでに神戸の不動産屋さんが登録していた。
ショックだったがそれはとても大きな幸いとなった。
再び「育家」を見直す機会、考える機会をもらったのだ。
「家は建ててからが始まり、時間をかけ手をかけ育てていく」
家を育てる「育家」。でも何か欠けている。
「社長、育家には暮らしが抜けてる!」女性スタッフが声をかけてきた。
住まいとは家と暮らしを育む場所。欠けていた大事な視点。
育家(いくいえ)に暮(くらし)が加わった。
「育暮家」はこうして生まれた。
やがて少し行き詰まり感があった社内に未来が開けてきた。

彼女が好きな建築の仕事。現場では空まわりも失敗もあった。
そんな時、お客さまに救って頂いた。
完成した家を訪ねると暖かく迎えていただき、暮らしぶりが伝わってくる。
結婚し退社してからも「暮」の一文字を確認しに、時々たずねてくる。
住まい手さんも、私達も育暮家。
「育暮家」は暮らしと人づくり。

育暮家
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育暮家物語22

子宝育暮家

OBさんから、いつの間にかこう呼ばれる。
育暮家ハイホームスで家を建てると赤ちゃんに恵まれる。
嬉しい知らせが続く。
偶然かもしれないが、新しい命と私達と家がつながる喜びはとても大きい。
いつまでも「子宝はいほーむす」と呼ばれたい。

子宝育暮家
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育暮家物語23

直して使う

社名を㈱ハイホームスから㈱育暮家はいほーむすに変えた。
新拠点は人が集まる場所を目指す。
気持ちよく集い、気持ちよく働く環境をつくる。
新拠点用地探しは中古物件探しから始まった。
家が余る時代、新築したとすれば育暮家らしくない。
循環型社会、言葉は理解していてもどう行動に移すか。
何を残し何を捨てていくか。拠点で実践し確かめたいと思った。

直して使う
直して使う

旧事務所から南へ2km。
本当にいいところを紹介して頂いた。
かつては活版印刷を営んでいたご夫婦から住居と作業所を引き継いだ。
野池さん、米谷さん、下山さんの力をお借りしてリフォームした。
パッシブで気持ちのいい理想的な集いと働く場所が完成した。
建物がすべてではない
これからわたしたちの行動、日常が試される。
新拠点の名称は「育暮家むぱす」。
む「夢」ぱす「path」道・・・夢に向かって歩んでいく
そんな思いと願いと約束を込めた。

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育暮家物語24

世代交代

後継者がいない、日本の中小企業の大きな課題だ。
幾代と続いている会社、育暮家はいほーむすのように
起業し新たに誕生した会社。
どちらも世代交代の時はやってくる。
人口減、高度テクノロジー、地球環境、
工務店には人出不足、職人さん課題、高度専門性
価値観の多様化等これまでと違う環境が迫る。
次世代を背負おうとしてもつい尻込みしてしまう。
理解できる。
後継者がいなければ廃業の道を探る。
すると、負の連鎖が始まる。

世代交代
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育暮家物語25

熟年メッセージ

しずおか健康長寿財団が募集している「熟年メッセージ」に応募した。https://hihomes.co.jp/smallhouse/blog/4918-2/
書き出しは「バトンを渡す相手の出現が私をよみがえらせました。」だった。
育暮家をつないでいく後継者が決まった。
経営に対して考え方がガラッと変わった。
未来への夢を描く2人三脚が始まった。
引かれたバトンゾーンは数年だ。

熟年メッセージ
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育暮家物語26

育暮家物語は次世代へ

そして2018年の夏、バトンタッチされた。
事業承継と起業は全く異なる。
承継にはそこまで培った土台がある、お客様がいる。
その資産を如何に大切にするかだ。
自分のやりたいことだけをやりたければ起業の道だ。
事業承継者には素直さがいる。
その素直さは人から学ぶ基本だ。
学ぶものは過去にも多い。
未来の未知と過去の未知、時代の流れが速いだけに未知は増え続けている。
やがて学びがあたらしい育暮家を作り上げる。
希望と期待と夢を育てていく次世代が「お役立ち」をつないでいく。

育暮家物語は次世代へ
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育暮家物語27

「ライフサイクルリノベーション」・・・つなぐことが仕事に

「ライフサイクルリノベーション」・・・つなぐことが仕事に

これは私達が作った私達の合言葉。
暮らしや文化、家族の絆、そして家がつながっていく
新築も建て替えもリフォームや家守りも一つのつながりのなかにある。
世代交代はくり返される。
つなぐ家づくりをライフサイクルリノベーションと呼ぶことにした。
住まい手さんも職人さんも世代をつないでいく。
つなげることが難しくなった時代。
判断に迷うことも多くなった。
答えは一つではない。

私達の仕事のテーマは「つなぐこと」。
つなぐ仕事を『ともに喜ぶ』
育暮家ハイホームスの経営理念だ。
世代をつなげて「育暮家物語」もつながっていく。

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